翻翻訳事始め − 第32回 「日本語と英語の構文比較」
今回の「翻訳事始め」は、年末年始にかけて読了しました、上智大学文学部教授であります安西徹雄氏の幻の名著「英語の発想」(講談社現代新書)をベースにさせていただきまして、日本語と英語との間に存在する表現や構文上の違いについて、言語学的な比較をできるだけ平易に検討・解説してみたいと思います。
「幻の名著」とあえて記しましたのは、この著書はすでに絶版となっているからでありまして、古本屋さんは別として、一般書店やアマゾンドットコムからでは購入することが出来ないからです。 一気に読了した後の感想としましては、日本語と英語との言語学的な違いについてこれほど分かりやすく、かつ懇切ていねいに一般読者向けとして書かれた書籍は恐らく今までにも前例がなかったのではないかということでした。 しかも、安西教授の目線は、あくまでも翻訳者としてのそれでありまして、翻訳を実際に行う現場の目でもって、比較・検討を行い、「翻訳読本」としても大変すぐれた構成内容となっております。
著作の中における安西教授の立場は、日本語と英語と間で対照言語学を研究する研究者であり、なおかつご本人自身が翻訳者としての見事な試訳を提供されているというところにまずは、私の耳目が集中しました。 日本語と英語との間に存在する決定的な構文上の違いに由来するいくつかの特徴的キーポイントによって、そのまま英語を日本語に直訳したのではどうにもこうにも座りの悪い、日本語としてはきわめて不自然な翻訳になってしまわざるを得ない状況に陥ってしまいます。
これは、翻訳をしたことのある人であれば、必ずや経験する一種のジレンマであり、直訳しただけの翻訳では、お客様にとっては、とても使いものにならないという場合が出てまいります。 安西教授がご指摘されている特徴的キーポイントとは以下のような比較対照であります。
1) 英語は名詞中心構文であるのに対して、日本語は動詞中心構文である。
2) 英語は、<もの>を主語とした無生物主語構文が数多くあるのに対して、日本語ではあくまでも人間を主体とした構文にした方がはるかに自然な文章である。
3) 英語では、重要な用件は文章の前部に置かれるのに対して、日本語では、文末に置かれる傾向が強い。
4) 日本語は動詞の働きによって、主語がわかるような構文になっており、そのために主語をあえていちいち書き表す必要がない。
5) 日本語には、英語で使われるような間接話法が存在しない。(日本語では、一般に直接話法で表現する。)
6) 日本語では、物事全体が自然にそのようになったというような状況関係的な表現を好むのに対して、英語では人間の行動中心として論理的な把握をし、「(動作主としての)主語+他動詞+目的語」という語順の形式による表現を好む
1)から6)までの比較検討は、かなり文法的な内容も含まれてはおりますが、例えば、4)で指摘されている日本語での主語の欠落については、"日本語とは、主語がなくても意味が通じる「以心伝心」の言語"だということは、感覚的には当然認知し、それは、日本語という言語のもつある種の宿命的な性格であるとこの著作を読むまでは私自身、かたくなに信じ込んでおりました。
しかしながら、よく考えてみますと、なぜ日本語に主語がなくとも、少なくとも日本人には主語が誰を指すのかを理解できるのか(ときどき理解できないこともありますが)ということになりますと、(そのような質問は想定だにしておりませんでしたが)答えるすべさえ持っていないことにふと気づかされるわけです。 安西教授が引用した川端康成や谷崎潤一郎といった日本の文豪の小説作品をコロンビア大学名誉教授でありますサイデンステッカー教授の名訳(英訳)を用いて、主語のない文章に対して誠にもって詳細なる解析を行っています。
そこでは、私が今までに意識さえもしたことがないような深遠なる結論を導き出しています。それは、日本語に存在する敬語や謙譲語などの使い方で、誰と誰との間の話であるのか、小説を読みすすんできた読者であればそれが自然と判明することができるような仕組みになっているというのです。 ですから、いちいち、主語を書かなくても状況判断、ならびに登場人物同士との間にある人間関係からの推察によって誰が誰に対して話をしている場面であるのか、ほぼ間違いなく見当がつくものだというわけです。
2人の文豪が書いたそれぞれ主語のない文章を翻訳されたサイデンステッカー教授は、英語では、それこそいちいち主語をこまめに入れなければならないわけで、敬語や謙譲語といった言葉の用法が存在しない英語では、主語がまったくなければ誰が誰に対して話をしている場面であるのか、推察することさえきわめて困難な状態となります。
このような主語のない文章に長い間、慣れ親しんできた日本人の方々は、半導体製造装置の操作マニュアルのようなテクニカルな文書の中でも、主語のない文章を(割と平気で)お書きになります。 人間関係の機微が展開される小説舞台の中でならいざ知らず、マニュアルのような敬語や謙譲語からは縁遠い技術文書の中で主語を省かれますと、日本人であり、ベテランの翻訳者であるといえども、頭をひねりつづけながら、推察の域を出ないような翻訳を強いられることになります。 これは、今だに遭遇することの数多くある翻訳者泣かせの代表例であると申せましょう。
この安西教授が指摘している日本語と英語との間に存在する構文上の違いとその比較につきましては、誠に興味の尽きない内容がまだまだ盛りだくさんに網羅されておりますので、次回の翻訳事始めでもその続きをご紹介させていただきたいと思います。
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