翻訳事始め − 第 44 回「翻訳支援ソフトの功罪」
翻訳業界に席を置いていないと知られていないことかもしれませんが、現在、翻訳業界では、大量の翻訳物、とりわけソフトウエアやハードウエア関係のマニュアル文書翻訳などにおきましては、「翻訳支援ツール」と呼ばれるソフトウエアなしには、翻訳を受注することはおろか、短納期内で翻訳作業を進めることさえとうてい可能に近い状況を呈しています。
以前のこのコラムでも何度かご紹介したことがありますが、翻訳支援ツールの業界標準となっているソフトがTRADOSというツールです。このドイツに本社を置くTRADOS社も業界第2位のスコットランドにありますSDL International社にこの夏、買収をされまして、2007年には、TRADOSとSDL社から出されている翻訳支援ツールでありますSDLXとの間で完全に合体したひとつのソフトになるということが正式発表されています。
ということで、翻訳業界は、最近になって翻訳支援ツールを開発しているソフトウエアメーカーならびに世界的な大手翻訳会社間でM&Aが果敢に繰り広げられる戦国時代へと突入した感があります。それは、何も翻訳業界に限ったことではなく、現在のグローバルビジネスのメインストリームを具現化している現象であるとすれば、その現象に巻き込まれるのは、ある程度仕方のないことなのかもしれませんが、それらツールに依存して生業を立てている私どもには、一抹の不安もよぎるのは否めないところです。
先にも申し上げましたとおり、大ボリュームの翻訳文書を短納期内に翻訳をする、しかも、それら文書の傾向として、多くのユーザー・マニュアルなどに見られるように、かなりの部分で、レピティション(Repetition:繰り返し)があります。しかも、ソフトウエアのようにほぼ毎年、アップグレート・バージョンが出てまいりますと、その都度、マニュアル全部を翻訳し直すということは、確かに非効率もはなはだしいことでありますので、翻訳支援ツールを駆使することによって、改訂された箇所だけ、あるいは、加筆されたところだけを翻訳すれば、あとは、今まで翻訳したものを併せることによって事が足りるということになります。
翻訳支援ツールは、文章のセグメントをそのままデータベース化して翻訳メモリー(TM)というものを構築していきます。ですから、同じような文章が繰り返し出てくれば、その都度、セグメントで、すでに翻訳されている文章がTMの中から自動的に出てきます。これは、理論的には確かに翻訳効率を飛躍的に高め、翻訳文章の一貫性(Consistency)を維持させていくには大変優れた機能であることは、言うまでもないことなのですが、注意を喚起しませんと、落とし穴があるということも隠れた事実としてこの際、皆様にお話してみたいと思います。
実は、このTMというのが、けっこうな曲(くせ)者でありまして、はじめてマニュアルが翻訳されたときに作られたTMがそのまま引き継がれて、アップグレート・バージョンが出てくるたびに、やはり最初のTMが幅を利かせて、翻訳文章の首座を占守することになります。しかしながら、翻訳をしたことのある方でしたら、どなたでもきっとご経験されたことがあるのではないかと思うのですが、最初に行った翻訳文章に対して、あとでそれを読み返してみる機会があったのなら、自分の翻訳は、なんとまあ拙(つたな)い翻訳であったのだろうという感慨を抱くことが多いことではないでしょうか。
そのような拙い翻訳文章が実は、TMのリソースとして代々引き継がれることになりかねないわけです。それでは、TMを定期的にアップグレートしたりアップデートしたりすることはしないのかと申しますと、ソフト上の機能的としては、クリーンアップという作業があって、翻訳終了後にクリーンアップを行うことで、毎回、基本的にTMは最も新しいものに変わっていきます。(というよりは、TMというデータベースにあらたなTMが追加されていくことになります。)
しかしながら、クリーンアップをする前段階として翻訳者がTMのチェックを行い、必要に応じて変更するのは、かなりの勇気を要することだというのが、偽らざる事実ではないかと思います。それは、TMの変更(特に100%マッチングの場合)は、明らかに誤訳であったり、不適切な用語が使われているというような場合を除いて、通常TMは基本的には、維持していかなければならないという不問律のようなものがありまして、TMを変えるのは、それなりの重要な理由付けが必要になります。
TMの変更作業についてエンドユーザーからのフィードバックなどがあれば、それは大変にありがたいことなのですが、大ボリュームのマニュアル翻訳を次から次へとこなしていかなければならない作業フローの中では、誰しもそのような余裕がないのがまた残念な現実となっています。そこで、お分かりのようにこのTMというのは、未来永劫とまではいきませんが、けっこう固定してしまう性格のものでありまして、ここに品質上の隠れたボトルネックがあります。
それでも、私としては、翻訳者あるいは、プルーフリーダーの方々には、TMで、特に100%マッチィングの場合であってさえも、出てきたTMをそのまま鵜呑みにするのではなく、勇気を持って、敢えてTM変更のご提案をしていただけたらと切に希望します。そうでなければ、いつまでたっても拙いTMを使うことによって、拙い翻訳しか生み出せない環境に陥ってしまうからです。それでは、翻訳者として、また翻訳業界で生業を立てるものとしてあまりにも進歩がないではありませんか。
Ken Sakai
President
E-mail: KenFSakai@pacificdreams.org
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