翻訳事始め − 第 47 回「
作者と翻訳者の関係
」
最近目にした日経新聞の中で、翻訳者と作者との間の距離というのか、両者の関係につきまして大いに考えさせられる記事を 2 つほど拝見いたしましたので、それらの記事にヒントを得まして、「翻訳事始め」を今月号は皆様方にお届けしたいと思います。
最初にご紹介したい記事は、「私の苦笑い」という毎週月曜日の連載シリーズになっているインタビュー物で、 3 月 27 日の日経新聞に掲載された芥川賞受賞作家の小川洋子さんの記事であります。彼女の最近のベストセラー「博士の愛した数式」が誕生するまでの苦労話を語った内容ではありますが、小説を書く者としての情理と呼んだらよいのか、小説という物語が体を成すまでの作者の微妙な心の葛藤や小説を完成させるまでの極意というものをものの見事に言い表している言葉の数々に痛く感銘を抱きました。
「物語は作家が作り出すものではなくて、世界のどこかにあってあらかじめ存在しているものだと思う。例えば、それは、はるか遠い場所にある、太古の時代からの洞窟の壁画のようなものかもしれない。そして誰かが見つけてくれるのを静かに待っている。(中略)でも本当に大変なのは、洞窟にたどり着くまでの時間だ。その場所への道順はいつも異なっていて、道に迷ってしまうことが多い。」
物語が作者に訪れる瞬間というのは、彼女にとってはまさに「潮が満ちてくるような幸福な瞬間」なのだそうです。何というアナロジー(類推)であることでしょうか。映画化され、現在映画が日本で公開中の「博士の愛した数式」は、機が熟さないうちに書き始めようとしたため、無理な人物設定をとってしまい、 1 年間はほとんど執筆が進まなかったというのです。そこで、小川さんは、物語が眠る「洞窟」にたどり着くために、何人もの数学者に取材を行い、あるとき、純粋で優しい感性を持つ、ただし記憶が 80 分しか持たないという博士が、不意に彼女の頭の中で鮮明な映像とともに立ち現れたということです。
この小川さんの記事と前後して、 2 月 18 日の日経新聞(夕刊)に載った、翻訳家であります鴻巣友季子さんの書かれたエッセー風の記事も同じように素晴らしいアナロジーを用いて、今度は翻訳をする者の立場での情理と翻訳を完成させるまでの極意というものをやはりものの見事に書き表しておりました。(以下は、鴻巣さんのエッセーからの引用)
著名なインダストリー・デザイナーで、丸いドーナツ状をした加湿器などのデザインで一世を風靡している深澤直人さんからは雑誌でのインタビュー取材の中で、「自分はデザインを造ったものではなく、“そうあるべき姿”を再現したに過ぎない。例えば、こことそことあそこにある星とを結んでごらんといわれると、急に熊やサソリの形をした星座というものが見えてくる。まあ、それと同じようなことをしているだけなのですよ。」
さらに仏像を彫る、とある高名な仏師さんは、「仏様を刻んでいるというのではなく、木の中にいる仏様を木屑を払ってお迎えするというのが私のやっていることであり、私が私がという“気負い”があるうちは、本当の仏様には出会えないものなのです。」そして、ここで当の翻訳家の鴻巣さんは、仏様を訳文として言い換えてみると、本当に自分に対してしっくりとはまってしまうのだとおしゃっております。そしてこの2つの引用は、めちゃくちゃ翻訳者魂をくすぐるもの、これらを読んでぐっとこない翻訳者はいないだろうさえと申しておいでです。
小川さんは、小説家という作者としての立場からアナロジーを用いて、物語にたどり着くまでのインスピレーション溢れる道筋を語ってくださり、翻訳家の鴻巣さんは、その道の大家の言を借りて、翻訳者としての真理を鋭く突くような道筋をやはり代弁してくれています。作者と翻訳者、それぞれの立場は違っていても、そこにある完成にたどり着くまでの苦労には似たようなところがあり、機が熟していないのにやみくもに始めようともがいてみてもうまくいかないことは、小説であれ、翻訳であれ、他のどのような仕事であっても似たり寄ったりの状況にあるということを知らしめてくれました。
しかし機が熟すまでそれらを漫然として待っているだけでは、いつまでも物事を完成させることなどとても出来ないことでしょう。作者と翻訳者は、それぞれの対岸にいて、普段はあまりコミュニケーションを取り合ったり、ましてやお互いの顔を見たりというようなことはほとんどしない間柄なのですが、小川さんと鴻巣さんとのお二人の記事を読んで、作者と翻訳者との間にあった距離が私の気持ちの中でずいぶんと狭まってきたように感じられました。
機が熟すように自分の方から積極的に働きかけ、たゆまぬ努力をし続けていく、そうすることによって、いつしか、「これはすでにあった物語でありまして、たまたま私が文字にしているだけです」」とか、「自分が翻訳をしているというよりは、作者が私にこう訳せといわれるので、その言葉に聞き従いながら、日本語にしているだけです」とか、そのようなレベルの境地に一生で一度でもいいからなってみたいものであります。
そのようなレベルを目指すのは、作者も翻訳者も立場に関係はないのだなと知らされましたので、その意味で、作者に対しての親近感がこれからは少しは違った形で出てくることを期待したいものだと思います。それはつまり文字だけによらない、むしろ文字に隠された作者のメッセージや思いまでをも、まるで作者からの指示がそこであったかのようにして読み取り、それらを作者の文章力を借りるがごとくして表現していくことが出来るような翻訳者になることができたらと思わず夢想したものでした。繰り返しますが、一生に一度でもそのような「作者と翻訳者との至高の関係」に巡り合ってみたいものです。それこそ、きっと「翻訳者冥利」に尽きる経験となることでしょう。
Ken Sakai
President
E-mail: KenFSakai@pacificdreams.org
|