翻訳事始め − 第 48 回「3%とというアメリカの現実」
4月24日より、ニューヨークのマンハッタンを舞台にして第2回PEN World Voices Festival(主催:PEN American Center)が開かれました。私も参加してきましたというふうに書いてみたいところなのですが、そのようなイベントがあること自体も事前には知っており
ませんでしたし、さらにPENというこの国際組織は、International Association of Poets, Playwrights, Editors, Essayists, and Novelistsの略称でありますので、残念ながらなぜかここには翻訳者(Translators)のタイトルさえ含まれてはおりません。
世界33カ国から135人の著者が参加したこの大がかりなイベントは、アメリカ国内の主な有力紙でもこぞって取り上げられ、イベントの模様が報道されました。翻訳者の冠が着せられてはいないPENの大会ではありましたが、"Translation and Globalization"という分科会が
きちんと設けられてありました。その分科会でのオープンニング・スピーチを行いましたロスアンジェルス・タイムスの編集者でありますSteve Wasserman氏は、アメリカで出版される書籍の僅か3%が翻訳物であって、その3%というのも技術的なマニュアル本であったり、
参考書関係がほとんどであるという指摘が行われました。比較としてその対極にあるのがイタリアだということで、イタリアで出版される書籍の70%は、翻訳物だということです。
このいささかセンセーショナルな3%という数字が一人歩きした感のある会場内での空気を受けて、分科会での議論がたちまちのうちに白熱し、パネル・ディカッションでは、政治家や報道関係者をはじめアメリカの一般世論がなぜにこうも世界情勢にあまねくも疎く、他国の
文化や言語を理解しようとしないのかという現状を如実に物語る数字であることに対して非難や糾弾の狼煙が各国の文学者や編集者からいっせいにあげられました。それは、とりわけ各国で文学や出版にたずさわる関係者の危機感や焦燥感の上であがないきれないものが
あり、自国語で書いたストーリー性もあり、読み物としても超一流な文学作品は英語に翻訳されない限り、アメリカに住む人々のもとに紹介されたり手元に届いたりすることは決してありえないという言語による排他的な現実の世界を強く認識した瞬間でもありました。
逆に多くのヨーロッパ諸国では、「ダビンチコード」や「ハリーポッター」などの翻訳物にベストセラーのトップの座をやすやすと譲り渡してしまい、多くの自国の著名なベストセラー作家たちも自国での出版業界の中にあっても安閑としてはいられないという強い危機感の
中で、執筆をしているという報告もあり、翻訳をする、あるいはされるということは、文学者や出版関係者にとってはまさに両刃の剣となりうるという厳しい現実が潜んでいるのだということを物語っていました。
PENの本大会にご参加された文学者は、ノーベル文学賞を受賞されたアメリカの女性黒人作家であるToni Morrisonをはじめ、各国のノーベル賞候補者級の方々であったようですが、そのような超トップクラスの文学者や作家の集まりにおきまして、翻訳についてこのような
白熱した真剣な議論が戦わされたというのは、何はともあれ、翻訳を生業にする私のような人間から見れば、翻訳に対する認識を高めるという観点から見て大きな前進があったのではないかと思います。
また、3%とという数字にこだわるわけではないのですが、今年の3月に日本で行いました私の「アメリカでの翻訳事情」というJTF(日本翻訳連盟)での講演会の中で、昨年(2005年)は世界の翻訳市場は約1兆円規模に達した模様ですという私の話をアメリカでの翻訳市
場は約1兆円と間違ってお聴きになられた方が多くいらっしゃいましたようで、さすがはアメリカですねというようなご感想を講演にご出席されました方々からメールでその後いくつかいただきました。そのたびに私は、それはアメリカだけではなくて、全世界での数字なので
すよとご訂正のメールをすぐにお送り返させていただいておりました。
1兆円のうち、アメリカの翻訳市場がどれだけのものであるのか、私も勉強不足でそこまでの数字をいまだつかんではおりません。しかしながら、3%しか翻訳書籍が出ていないこのアメリカの出版業界においては、翻訳市場は思っていたよりもずっと小さいような気がしてま
いりました。また翻訳市場が小さいことによって、世界各国の優れた作家の作品がアメリカではまったく紹介もされず、作家の名前も作品も聞くことさえできないという現実は、本当に悲しむべき事態であります。
アメリカで翻訳されて出版されるものが、ソフトウエアやハイテク機器のマニュアルだけであるとしたら、アメリカの一般の人々が持つ世界観はあまりにも偏った、いびつなものしか生まれてこないような気がします。アメリカが、そして世界がもっとバランスをとって、単に
営利だけを追求するために翻訳をするのではなく、世界の文化が醸し出されて、そのこうばしいような香りが感じられるような翻訳と翻訳者とが将来に向けて育ってもらえないものでしょうか。その道はしかしながら限りなく、長く厳しいものでありましょうが。
Ken Sakai
President
E-mail: KenFSakai@pacificdreams.org
|