私ごとではありますが、この年末年始にかけて日本のアマゾンから購入した2冊の日本語訳の書籍を先ほど読み終えたばかりのところです。1冊目は「多様性の科学」(マシュー・サイド著;ディスカバー・トゥエンティワン)、そして2冊目は「恐れのない組織」(エイミー・エドモンドソン著;英治出版)です。これら2冊はともに内容的に重なる部分がいくつも見受けられるのではありますが、どちらも職場や組織における多様性と心理的安全性の欠くべからざるほどの重要性について多くの史実や豊富なデータなどを駆使して大変説得力ある語り口で読者を一機読みさせてくれるほどの魅了をもった書籍でした。今回はいつもの記事とは趣を異にして、感激がまだ冷めやまぬこの読了直後の段階での読書感想文とさせていただきます。
多様性、つまりダイバーシティについてはいまさら特段申し上げることもないのですが、これは面白いといったら顰蹙(ひんしゅく)を買うことを覚悟であえてご紹介したいのが、「多様性の科学」の著者で英「タイムズ」のコラムニストであるマシュー・サイド氏の逸話としてお話です。国を問わず1970年代までのオーケストラの団員はほとんどが男性であった、それは一般的に男性の方が演奏が上手だという勝手な思い込みが当時は支配的であり、それゆえオーケストラに採用される団員のほとんどは男性であったといいます。ところが、近年団員応募者をカーテンで仕切って応募者の性別は不明のまま演奏をしてもらったところ、なんと女性のオーディション合格率は以前と比べて4倍にも跳ね上がったという驚くべき現象が音楽界で引き起こされたというのです。
これは世にいう、アンコンシャス・バイアス、つまり無意識下での偏見のなせる業で、採用に当っていた審査員のいずれもが性差別の自覚がないまま自らの固定観念で主に男性の団員だけを選別していたことになります。こういった現象はなにもオーケストラの団員採用に限ったことではなく、教育関係、医療機関、政治、軍隊など社会の広範囲に散見される現象だといっても決して過言ではないと思います。そのためにここ数年はアメリカの企業ではアンコンシャス・バイアスを是正するための社内トレーニングがマネジメントを中心に行われるようになってきました。ところが、本トレーニングではアンコンシャス・バイアスは誰にでもあるということが強調され過ぎてしまい、アンコンシャス・バイアスは仕方のないものだという諦めに近い意識が逆に醸成されてトレーニング効果がほとんど出ておらず、そのため実際の企業組織内での多様性には結びついていないという皮肉な結果にさいなまれています。
一方の心理的安全、つまりサイコロジカル・セーフティはグーグルが採用した社内トレーニングプログラムとして一躍有名になり、ハーバード・ビジネススクール教授で心理学者であるエイミー・エドモンドソン氏が2019年に上梓した「恐れのない組織」(The Fearless Organization; Creating Psychological Safety in the Workplace for Leaning, Innovation, and Growth)は、心理的安全性が職場内での従業員の学習やイノベーション、成長にあたっての共通因子になっていると喝破してくれています。それだけではなく、ひとつ間違えれば大惨事になりうる業種に関しての驚くべき教訓が本書内ではさまざまな実話を通して語られています。
とりわけ民間航空会社のパイロット同士のコミュニケーションには背筋の凍るところがあります。ときは1977年3月のカナリア諸島で起こったKLMオランダ航空機で、KLMの中でもとりわけ地位が高かった当該機長に対して同じコックピットにいた副操縦士は危機的状況でありながらも何も進言できずに2機のジャンボ機同士が離陸直前で衝突して大炎上、583名の死者を出したという史上最大の航空機事故、そして2009年1月に起こったいまだ記憶に新しいデルタ航空機でのバード・ストライクによるエンジン停止が起こった際、機長と副操縦士の適切な判断によってハドソン河に不時着させて誰も死者を出さなかった件と、心理的安全性の如何によってまさに天国にもなり地獄にもなるという現実的には想像を絶するほどの深遠で深刻な事情が横たわっていることを突きつけられた気がいたしました。
著者であるエドモンドソン氏が引用している事例には、スペースシャトル・コロンビアの爆発事故、東日本大震災に至るまでの福島第一原子力発電所での経営幹部対応による致命的失策と経緯、医療現場での癌患者への化学療法薬剤投与ミスでの死亡事故などまさに枚挙に暇はないほどなのですが、どれもこれも心理的安全性の欠如がもたらす悲劇であったというのは複雑な要素がさまざま絡めあって起こった大事故であったものの、いずれのケースにも通奏低音のごとく現場に存在していた空気に支配されていたということが押して知るべく事実だと悟らせてくれるわけなのです。ちなみに著者が紹介してくれている福島第二発電所での現場トップによる危機回避の見事な対応については本書を通じて私は初めて知りうる機会をいただきましたが、少なくともこのようなことがあったことは、私が知る限りにおいてアメリカではまったく報道されていなかったことに愕然させられました。
両書とも大変読みごたえある充実した内容となっていますが、両書に書かれている心理的安全性と多様性というのは恐らく車の両輪であって、どちらか一方が欠けていると現実としては機能しないのではないかと察せられます。ではどちらが先に来るのかというのは卵が先か鶏が先かの問題だと思われますので、とりあえず職場では両方ともパラレルでのアプローチとして取り組んでいかなければならないテーマなのではないでしょうか。その音頭取りを担う役割としては、やはり社内ではHRの使命になるでしょう。そしてこれらテーマを音頭取りだけで終わらせるとしたら、それは経営トップの重大責任になると申し上げられます。トップの責任はきわめて重いのですが、HRがリーダーシップを発揮しなければ、これらのテーマは絵に描いた餅として組織内で永遠に具現化できないお題目となるでありましょう。